南方を熯速日との交信台と丹生の門に塞がれ、その後ろには倭文の現身が控えている;しかしは不在だった。西と北は本来結ぶはずのない神々が結託して断ち切っている:諏訪、熊野、八幡、そして鹿島。その間を埋めるように無名山神と不問山神の二柱が聳えている。そして東には、果てしない大海。いずれの楔社ももはやうたわれることのない痕跡霊の様相を否めない。
まるでなりふり構わず慌ててこの場に掻き集められたかのようだ;この場所を守るのに新旧多様の者達が、車座になって結託している。いずれの神々も不都合な何者かに慌てて蓋をすべく、過去も禍根も地も血も今は不問と分魂を集められて徹底した包囲をなしている。この海に面したちっぽけな平地は恐らくついぞ最近までは海の底だったに違いない、つまりこうして山から平地を見下ろす形に肩を並べる種々様々の神々は、本来ぞろりと肩を並べて海を睨んでいただろう。この地に立っていたまつろわぬ神々:賀毗禮の眼目神:今は不在の甕星神:名の残らぬ雷神:水龍神、しかしそれとはまた全く別の何かが、この海には、あったのだ;そしてとのその遠近は知れずとして、筑波の山を遠目に望む今は平野、古には海、この境界は急拵えの神族連合に封じ込められている。
二人は何とも心許ない木の板の上に腰を下ろしていた。元々は上等に設えられた品のいい造りだった……のかどうかも今となっては判らない;夏のじっとりとした空気をそのまま吸い込んだように湿って朽ちかけた古い木の板が殿のぐるりを囲んでいる:側縁。その下に敷かれていただろう砂利も合間から草に突き割られ枯葉枯草木屑で汚れていた;地虫が歩き回り縁葛と縁束には蜘蛛が巣を張って垂れている。側縁の下ばかりではない、破風の裏にも虹梁の脇にも家主の有無に関わらず蜘蛛の巣が張り巡らされている。この罠にかかるのは、虫々よりも置き去りにされた時間の死体の方だろう;ここにいる蜘蛛達はそれを食べているのかも知れない。賽銭箱も忘れ去られて虫の住まいになっている;それが置き放されているのは〝まだ崇敬者がいる筈だから……〟との人間の苦しい言い訳にも見えた。小銭が入っていないわけではないが、脇に落ちた銭玉にさえ錆と埃と時間がこびりついていて、現在からも置き去りにされてすっかり白骨死体然としてその体をじめついた空気に投げ出していた。向拝柱も架木も朽ちてさゝくれ、あるいは折れている。おわした神様へ呼びかけるためこさえられた筈の本坪鈴でさえ一体どれ程の月日声を上げたことがないだろうか、ぼろに腐食して穴が空きもはやまともな音は鳴るまい。生え放題の草も、もう何代もここで繰り返してきただろう;あるいはそれを見てきた老木もあるだろう。神の代わりに虫が住まい、崇敬者の代わりに草木が取り囲む。神と霊気の漂う代わりに、黴と湿気が蔓延っていた。
今やそれを記憶するものは何もない:人も、物も。……なんて大したものでもないと思うのよ:だってこのお社、磯原に作られたのはそう古いことじゃないでしょう、何言ってんのかしらね?
溜息を吐きながらそう言うのはイギリス生まれを自称するコーカソイド、ウェービーなブロンドと色付きびいどろの様な青い瞳はその特徴だった。
寝台探偵気取りもいいところ:中二病だわ、すっかり。いくじのないこと
あゝ、ジョセフィン・てゐ
だれ?
気のない様子でコーカソイドの少女の言葉をはぐらかすのは、栗毛の少女。金髪碧眼の冷然とした女より多分に生々しい印象のある東洋人だった。
乱歩だって彬光だって何だって構いやしないのだけど、私達は■が見ている間はその気に召す通りでなければいけない;でも■が見ていない間にせっせと欠片を稼いでこの夜を抜け出さないといけないのだから。この倶楽部活動は、そういうものでしょう?
えゝ、そうでなければ私は、蓮子と出会うことはなかった。
だったら、感謝しなくちゃね;馬鹿馬鹿しい妄想の遣いでも、欠片は手に入るわ。
それにしたって最近やたらとこっちに来ているようだわ、やりにくったらない
SuicideWithApathyらないだけマシよ
まあそうだけれど
この二人にとって〝女子としてはそのまま腰を下ろすのは気が引ける〟といった場所に座らざるを得ないシチュエーションは極めて月並みなものであった;持参したタオルは元よりこうした敷物用途、女子二人がやってくるには些か華のない場所だが、それでも嗜みは嗜みなのらしい。タオルに描かれた蛙のプリントを尻に敷いて側縁に腰を下ろした二人は、視線を交えるよりも同じ方向へ視線を放り投げている。
一見すれば何もないボロ神社は、どんなに好意的に弁護してもここ何年かは全く手入れされていないように見えた。丈を伸ばした草は彼女達の腰掛けた側縁の高さゆうに超えていて、腰掛けた彼女達の、こんなワイルドな空間には不似合いに細い脹脛に膝、そして白い太股をくすぐっている。ひらとしたスカートにソックス、トレッキングにも向かなさそうな可愛らしい靴は、この社の有様と比して考えれば極めて不用意である;こんな場所にそんな肌色な恰好だなんて藪蚊の生贄として自らの体を差し出しにやって来たようなものだ、マダニやヒルに宿られようものなら無駄な一苦労を買うことになるだろう……が特に対策もしていないようだ、慣れているのか何なのか。
私達、温泉に入りに来たんじゃなかったっけ?
え、違うと思う
え、うそでしょ?
何の嘘よ……〝イクチ〟でしょ?
二人の少女は打ち捨てられた小さな神社巡りをしながら温泉に思いを馳せつゝ、しかしその目的は〝イクチ〟と呼ばれるこの地方特有の怪魚の観測だった。それが何故神社巡りになったか。
つまり、■の無意識夢想の指示に従って磯原に残留する小さな神社の形跡を巡り歩いていたのだった。
この神社も先に見た通り悲惨にボロの様子、ここには徒歩以外の方法でやってくるのは厳しい;徒歩で十分程の距離だったが、その所謂〝ラストワンマイル〟まではサイドカー付きの燃料式二輪車での移動である。燃料式だなどと今どき滅多に見かけるものではない、随分と年季の入ったモビリティで、宇佐見蓮子の持ち物だがこうして〝観測〟では欠かせない脚だ;二人共いつ壊れるかと戦々恐々と使いながらも、こんな活動をしている今のところ致命的に故障したことはなかった。今はヘルメットにはたんまりとお菓子が詰め込まれていて、脇に置かれた水筒の中の飲み物はコーヒーとお茶、お菓子をチョンとつまみながらの休憩と、作戦会議だった。
だって温泉に幻想の切片があるって
まあそれは腑に落ちないわよね。この辺温泉有名だったっけ?
あるのだろうけど、でもなんで温泉なんか、って感じよね。こんな場所で温泉に入ったら、古代ローマとつながってしまうわよ。知っている?古代ローマの人間がお風呂を通じて現代の日本に来てしまう漫画、映画にもなったのだけど
「知ってるよ、欧州のお嬢様。じゃあ私はさしずめ『平たい顔族』ってところ?」そんなこと言ってないわよぉー。強いて言えば、『平たい胸ぞk
ぼこっ
あゝ蓮子、悪気はなかったの;私はただ正直を
余計に悪いッ!
ぶすと頬を膨らませたまゝ、蓮子と呼ばれた女はボロに傷んだ側縁の板の上に、それとは対称的に几帳面に整った真新しくノングレア仕上げの板状のものを置き、その表面を指で突くように押し込んだ;それは二つ折りが広がるように展開し、更にそれが三つ折りから戻るように広がった。
でも、茨城に伝わる怪魚伝説〝イクチ〟について、ローマは強ち無関係ではないのかも知れない
どういうこと?
「この辺の風土について記した古文書『常陸国風土記』にはという神様が登場するのだけど『賀毗禮の山』という場所に鎮座していたようなのよ。〝賀毗禮〟という言葉は〝カビリ〟の訛化かもしれない」〝カビリ〟とローマって……古ギリシャの〝カベイロイ〟だとか〝カベイリ〟だとかって言われる神性?
そ、正体のよくわかっていない神性ね。一柱を示す固有神名ではないとも、太陽神とか山神みたいな汎用的な名詞だとも言われているけど、私はキュベレ女神の原型なんじゃないかと思ってる。
いや、キュベレ、カビリ、カビレ、だなんて、そんなの荒唐無稽過ぎる;大体日本から遠すぎよ
でも、古ヨーロッパの文化が古代日本に影響を与えているかもしれない例は、他にも幾つもある:諏訪にはユダヤの信仰が影響しているように見える、聖徳太子はキリスト教とかゾロアスター教に理解があったと言われる、聖徳太子の側近秦河勝は摩多羅神の原型で迫害された民の神よ
トンデモな話ばっかり。ここは日本よ
件のは、日本神話のスター瓊瓊杵によりも先に日本列島に来ていた饒速日と系譜を同じくするとされるけど、ある側面では天津甕星と関連が強いとされる:天津甕星は日本神話では珍しい〝星神〟よ;でも星神は大陸文化では珍しくない。茨城周辺の神話には、大和政権の前に存在し大和政権に追いやられて隠されたり強制的に融和させられたもっと古い神話の痕跡が見える。
その、もっと古い神話、がギリシャだのローマだのペルシャだのから遥々渡ってきたものだっていうの?いくらなんでも遠すぎるわ
金髪少女が、思い出したようにお菓子を口にして満足そうな顔をしながら、言葉を続けた。
確かに、こことローマは遠すぎる、でも、私達の究極の観測対象は何だったっけ?
マエリベリー・ハーンさんが可愛いお顔でお菓子を貪っているところ
……宇佐見くん?
冗談よ、いや、半分は本気だけど。ほら、うめー棒のカスがくっついてる。
えっ、といってハンカチで口元を拭うが鏡を見ている訳ではない、見事に外し続けるので見かねた蓮子が手を伸ばしそれ摘んで自分の口に放り込んだ。美味と得意顔の宇佐美蓮子にメリーと呼ばれた金髪少女は困ったように目を逸して蓮子が指を触れた場所を改めてハンカチで拭いた。
〝結界〟
え?
だから〝何見に来たんだっけ?〟って。メリーがゆったんじゃん。イクチ探しも元はと言えば結界ってことでしょ?
そ、そう、そうよ。
金髪少女が両手を広げ、周囲をご覧なさいとでも言いたげなポーズでいう。照れ隠しのような大げさな様子だったが、そればかりではないようだった。「ほら、ご覧なさい。」
彼女の背後には、目に見えない何か大きな存在のオーラが立ち上っているかのよう;この少女がまるで見た目通りの少女ではないと、栗毛の少女が常々思う所以だった。ここ、まさに結界の最前線よ
こ、これ
蓮子と呼ばれた少女は、慌てた様子で空を見上げた。今は昼だ、空を見上げて見えるものは精々の想像がつく:青空、雲、或いは太陽、運が良ければ飛行機かヘリかアドバルーンでも浮かんでいれば穏やかな日常感満載だと言うのに、その通りではなかった;空を塗り潰すのは快晴の青ではなく宵闇の黒、浮かぶのは白い雲ではなく濃密な星雲、太陽はなくその代わりの月もその姿を見せていなかった。時は昼にも拘らず、黒髪の少女が空を見上げたと途端にそこはまるで宇宙空間、天蓋は差し詰めプラネタリウム;光源は知れなかったが二人がお互いの顔が見えない暗闇でもなかった。
えっ、ここ、どこ?この結界はどの時空とつながっているの?星が、まともな答えを返してこない―
そうよ、さっきから言っているじゃない。正解よ、そのまともじゃない答えがね
得意顔な白人少女に向かって、強い風が吹くわけでもないのに帽子を抑える東洋人は目を剥いた。
結界、それは正解。それを前提に私達がここに見に来たのは何だった:星、月、山、それとも?
魚よ。長い、魚:イクチ
メリーは、妖しげに目を細める。
そう、イクチ:シーサーペントの一角を、私達は回収しに来た。■の妄想力も大したものだわ;失われた時空の歩みが遥々繋いだ、本当は隔絶されたの二つの世界を、本当に結わえてしまおうとしているのだから。その力のベクトルを別に向ければよいものを
ふうん、そういうこと
■に暗示されて、実際にこの北茨城にまで来ようと言い出したのは、東洋人の少女の方だったが実際にその地に至って暴こうとしているのは、白人の少女だった。それは二人のやり取りを見ていれば如実だ;だが文脈を欠く荒唐無稽な言葉達を的確に結合して不理解を生まず飲込んでいく蓮子も全く蚊帳の外という訳ではないらしい。
■は、ここに結界が生じると想造した。だったら、ここに現れるのは
イクチ?
イクチの起源は判然としない;江戸時代に初めてその伝承が書物に記された、それ以前は口伝のみ。かと言って江戸時代の町人文化が物珍しい奇談を求めた結果全く無から作りされた話、という訳でもなさそう。ところで〝イクチ〟って響き、どこかで聞いたことが?
イクチオサウルスとかステガとか
模範回答ね、宇佐見くん
そりゃどーも。ギリシャ語の魚:ΙΧΘΥΣが、イクチの正体だっていうの?随分可愛らしい
きっと■が見出して想造したのはそのスジだわ。関東は、鎌倉幕府が興るまではずっと政治の中心から遠ざけられた遠国だった;江戸幕府首都東京都となって急に開発が進んだせいで、まるで昔から大都会で文化の中心地だったように思ってしまいがちだけど、関東って文明の伝播が遅くて中央の影響が薄い、クソ田舎なのよ。でもクソ田舎と言う割には巨大な文化圏を築いていた、いつの時代も中央にとっては都合の悪い勢力、まつろわぬ者達だった。ほんの少し掘り下げただけで、こんな風に歴史の地層が見え隠れする:つまり大和政権の更にその昔に存在した古代の痕跡が、ここは政権中央から遠く離れた僻地故に消し去られることなく残っているのよ。日本独自の神話の顔をして別の神話が埋まっている、私はそう思っているわ。北回り移動の欧州系も、大和政権の樹立に先立って日本列島に来ていたと私は思っている;それは、橿原に興味を持たずに諏訪、飛騨、それに常陸に独自の勢力を築いていた。もしかしたら大和政権が発足した後は土蜘蛛と呼ばれたかもしれないわね。
〝ΙΗΣΟΥΣΧΡΙΣΤΟΣΘΕΟΥΥΙΟΣΣΩΤΗΡ〟……だっけ?
怪魚としてのΙΧΘΥΣにジーザスフィッシュの意味合いがあったかどうかはわからないけれどね。もし日本に景教が侵入していたとしたらあるいは?秦氏の影響はここまで及んでいたのかしら。それがここに感じる結界だと思う。でも、この結界、まだよく見えないの;なんだかピントが合わない。蓮子、地図出せる?
うん
宇佐見蓮子は大きく広がった樹脂のような硝子のような板に向けて〝WakeUp,EMERALD-CHANG.〟と呼びかけると、その声に呼応するように発光して〝Hello,Renko.〟と滑らかな合成音声が返却される;これは折畳式タブレット型android端末、通称「タブロイド」だった;通称どおりそれは、展開するとタブロイド誌サイズになる。〝Summon:Maps〟蓮子がそう言うと、この辺りらしき地図が表示される;立体映像のような浮いたホログラムには記号模式化された地図、画面自体には衛星写真の画像が映し出された。
この辺りの地図だよ
えゝ、今いるのは、これね。巡ってきたのは、これと、これと―
メリーと呼ばれたコーカソイドの少女が、タブロイド端末の表面をてん、てん、と指さしタップする度に、マーカーが設置されていく。マーカー設置が終わる頃には、その数は二十を超えていた。
全部小さな社ばかりだけれど、見て、この配置
境目をなぞってるみたい
そう、山地と平地を境界するという一つの意思を持っているように見える
山と平地を区切る、結界、だってこと?
ブロンドの少女がマーカーをなぞるように指を走らせると、地図上に指の動きを追尾するベジェ曲線と、更にそれに追随するように等高線が描画されていった。巡ってきたという社はいずれもそう大差のない標高に残っており、北茨城のこの地域に開けた平地を囲む低い山々の中腹に鎮座しているように見えた。
にも拘らず祭神はハチャメチャよ。力を貸してくれるなら誰だって構わない:そう言ってこの境界線を引いたように見える。
この辺じゃ珍しいことじゃないでしょ。常陸太田の星宮神社、鹿島神社とその境内社の数を見れば、天津甕星の軍が対峙した大和朝廷の連合軍がハチャメチャだったことがよくわかるじゃない
確かにね。まさに力を貸してくれるなら構わない、はその通りということね。山と平野の境界に並んでるってことは、やっぱり山側が天津甕星で平地側が―
そこまでメリーが言ったところで、蓮子が言葉を挟み込んだ。ハーン少女が地図の複数の点を結び付けたところから、宇佐見の表情にはどこか意識の半分を別の場所に飛ばしているようなそゞろが見えていた;その焦点が、合ったというところだろうか。
本当に山地と平地、かなあ
宇佐見蓮子の言葉に、きょとん、と視線を送るマエリベリー・ハーン。
どういうこと?
日本人はタブロイド端末を幾つか操作して、ホログラム表示の地図に「温暖化が進行した未来の海面上昇と平地の水没」という環境問題を取り扱ったサイトの地図をオーバーレイしてみせた。
昔はほら、この鹿島神宮?のところは陸地だったわけじゃない、今は神社諸共水没してるけど。それよりもずううっと昔って、今よりももっと海面が高かった。ってことは、この平地って海の底だったかも知れないでしょ?だから
海面上昇によって更新される(かつてはそうだったかも知れない)海岸線と、巡ってきた神社の配置に目を見張ったメリー。
……流石だわ蓮子、キスしていい?
いっつも断りもせずにするくせ……っ、もうっ
コンソメ味のキスってのも悪くないわね:そう言っ
て目を細めるマエリベリー・ハーン。宇佐見蓮子は顔を赤くしたまま水筒を掴んでコーヒーを飲んだ。こほん。もし天津甕星の軍勢に臨んだ陣の跡だとすると、海岸沿いに並んでいるのはおかしい。純粋に海に向
かって海運の安全祈願の神社ならこの神々の顔ぶれの多さは説明がつかない。
これらの神社は海に向かって神威を発揮する必要があった。大和朝廷いや大和神権が配下の神々の力を集結してまで海に向かって監視していたのは
「「イクチ」」ヒュー、とお互いを両手の指で指差して笑う。
さっきからビンビンにキてる結界の感覚、これは山と平地の境目にあるものじゃなかった、だから巧く繋がらなかったのだわ。〝陸と海の隣接〟は〝現世と異界の接続〟のWrapperとして機能している、その隣接・接続こそが、ここに現れている結界の姿;ピントが合った、見えるわ!
海岸線が、結界ってこと?メリーには今、何が見えているの?
古代ローマとの境目、いえもっと昔かしら
海の向こうの異界はヨーロッパ?怪魚イクチとΙΧΘΥΣが接続する?
温泉、ローマの温泉、なんて浮かされたみたいに呟いている蓮子。一方のメリーはやっと捕まえた手がかり
を一気に引き寄せんと綱を引いているような意気に満ちていた。補陀落渡海って知っている?
即身仏みたいなやつ。海の向こうにある浄土へ旅立つとかいうやつでしょ?戻ってきたら殺されたみたいな創作話もあるし、個人的には姥捨てみたいな意味も帯びてそうな気もするけど
補陀落渡海の記録は太平洋に面した幾つかの地域に残っているけれど、茨城にも残っているの、もっと南だけど。他の地域ではともかく少なくともこの地域では、海の向こうは、異界だったのよ。
海が異界……少彦名の降臨?そう言えば、天乃羅摩船に似たものが流れ着いたって話もあるね
え、何それ?
虚舟っていう奇話なんだけど……鉄で出来て硝子の窓がある丸っこい舟が銚子辺りに漂着したって話。中には何か箱を持った異国の美女とお菓子が入ってたって。今のメリーみたいな感じ?
箱からポッキーを食べていたマエリベリー・ハーンは動きを止め、それからシナを付けるように
身を捻って見栄を切ってみる。あらー、美女なんて、そんな
首だけだったって話もあるけど
……
蓮子はタブロイド端末を音声指示で操作して、WorldWideWebを検索する。虚舟に関する情報が表示され、画面には当時の人々が書き記した図や、その特徴を記した注釈が表示された。
虚舟の記述があるのは、一八〇〇年代、それより前にも結界が開いたことがあるってことかな
一八〇〇年代ってことは、イクチの話が掲載された〝耳嚢〟の時代と重なりそうね。少し遡ると〝譚海〟もその時期だわ。ペリーの来航に先んじて黒船が北茨城に漂着し、それを境目に鎖国と開国の間で幕府が混乱し始めたたっていうのも、一八〇〇年代ね。
鎖国して閉鎖的な界を維持していた日本に異界との門が開いた;日本が外の界と結ばれる契機もこの茨城にあったということかな。茨城の海は、結界なのね。時代を超えて断続的に開閉している
魚を意味するΙΧΘΥΣという言葉を通じて、怪魚の概念が存在していた。魚は旧来〝さかな〟として認識されて、イクチは化物を指す言葉へ変化した。古代の人々はその化物を脅威と見做して、それに備えたのよ。実際に現れたかどうかは別としてね。
メリーは立ち上がって―草が深すぎて足が埋まりそうではあるがそんなことも気にしていない―意気揚々と口を開いた「さあ、回収にいきましょう」。蓮子の方も「そうね」と食べている途中の人工練苺に合成練乳をかけたお菓子を、口に放り込んだ。
それがよかったなあ
なにが?
二人は、来た道の草を再び踏み分けながら待ちくたびれているだろう彼女の燃料式二輪車へと向かう。と言っても世の車と違って、彼女の燃料式二輪車には人工知能はついていない;待ちくたびれるのは、付喪神がいればということだろうか。二輪車まで戻った二人、蓮子が本体に跨がり、メリーと荷物はサイドカーへどっかと乗り込んだ。ヘルメットを被って、今回の旅の目的の佳境へと向かう。
今回も私達が先に到着できそうだわね。そう何度も■に先んじられては堪ったものじゃない
イクジなし■ちゃん、その方法で入ったらどうなるのか全く自覚がない、困ったもんだわ
でも、耳嚢に記されたイクチが最後の一匹とは思えない。人類が今後も夢を見続ける限り、第二、第三のイクチが現れるかもしれない
パクリかよ。今のセリフを考慮に入れるなら、海溝の奥底に眠っていた巨大魚竜だってことになるけど。ずっと深海で過ごしていた魚竜が核実験ではなくて、ここんとこ頻繁な地震で活動範囲を変えて……って、まさか、〝311〟で目を覚ました?
それはそれでロマンがあるわね:マエリベリー・ハーンは笑って続ける。
さっき〝実際に現れたかどうかは別として〟なんて言ったけれどつまり、そんな化物は実在する必要なんて無いのよ、言葉さえあれば。幻想とは、非現実と現実の対立軸包含即ちリアリズムとは別のパラダイムである、ハイパーリアリズムの産物よ。ハイパーリアリズムにおいては、実在か非実在かは問われない。幻想は、表象と記号の対立軸包含から脱現実プロセスによってスピンアウトした余剰現実。即ちそれは、実在を先行としない現実よ。
何言ってるのかよくわからないわ。実在がなくても存在するってどういうことよ
心霊写真を見て、木の虚に人の顔を見出すこと。でもそれはただの勘違いではなく、確かにそこに人がいるということよ。人の認識が、木の虚に人を存在させてしまうのよ、実在ではなくともね。
それじゃただの空想ってことじゃない。せっかく結界を見出したっていうのに?
空想は脱現実の第一歩よ。イクジナシの夢想家■は、ベッドの上でこれを遊んでいるの。夢幻は実在の文脈を欠いたまま現実を描く、でもそれはあらゆる点で不都合が多い。だから私達はその回収に駆けずり回っているのじゃない
そっか、記号の脱現実は、時系列と因果律を無視するのね、星に聞いてもわからないわけだわ
無視すると言うか、そうした基盤の上に立脚しないということよ。因果律がないわけじゃない、でも、鶏と卵は双方とも親で双方とも子なの、それを考えた誰かが考えるとその考えた通りに因果に化けるだけ。そしてそれが、結界よ。結界は、障壁ではないわ。文字通りに世界をつなぐ結合なのよ。幻想は、結界を通って夢幻に帰るわ。でもまた現れるでしょう、言葉が表象し、表象が記号を呼び、記号が更なる幻想を作り上げるなら。つまり―
■みたいなやつがいる限りってこと?
そういうことになるかしら
私達が遣いっ走りにされている結界と幻想は■によって想造されている
そういうこと。かつては逆だったけれど、実在なんてね、今では情報の前では儚いもの
百匹目の猿現象みたいなものか。非現実・現実の観点からは否定されているけれど、表象・記号の観点では、今日まさに既成事実化されつつある。全世界の人間が肯定的にしたツイートは、最早実在を問わない現実になる。そういうこと
「みんなが神様だと願えば神様になるし、それは実在の何者かに向いた意識でなくても構わない。人間のもった最大の能力は、『空想を共有する能力、つまり共感』だというのが昨今の有力な考えよ、その考えと相反しない。この地域では、特殊な神として伝わったカビリと一緒に、特殊な魚として伝えられたイクティスが、まことしやかに語られ続けた。それがイクチ。」日本中の人間が〝呉爾羅〟を信じたらゴジラは本当に現れる?
現れないかも知れないけど、皆がまことしやかに言うのなら巨災対は組織されるかもね。それって教訓的民話と同じ姿だと思わない?
どこか腑に落ちない様子で腕を組んでいる、宇佐見蓮子。メリーはそれを苦笑いで見ている。
私達がこうして巡っている神社は、江戸時代で言えば、台場の砲台のようなものだった?
こうして海沿いに神社を並べ、神威を以て迎撃しようとしていたのは、結界を通って欧州からやってきた巨大な怪魚:イクチってこと
なるほど、それで海岸線沿いにずらりと色んな神様が並んでると。巨災対だ。
そして、メリーは何か感慨深げに呟き始めた、物思いに耽っているようでもあるしどこか自嘲を込めたような複雑な表情で。
……でも私はもどこかで、実在としての幻想郷を、望んでいるのかも、実在として。だからこんな能力が備わってしまった
その能力だって、思い込みかもしれないのに?
そうであっても、構わないわ。だってそれが、私の現実なのだもの
それは違うかな
どういうこと?
私の現実じゃない、私と蓮子の現実、そう言って欲しいものね。それが、秘封倶楽部でしょう?
えゝそうね、私達こそ実在を先行としない現実そのもの、だものね
うっま
白身魚の素朴な味わいに脂のコクがある、絶品ね
うっま!
もう少し美味しそうに表現できないの蓮子
だって美味いんだもん
食べているのは、あんこう料理だった。柔らかい上等な白身に、コクのある脂。どぶ汁が食べたいと言ったのは蓮子だったが、実際にありつけたのはあんこうの唐揚げだった。どぶ汁は冬でなければ食べられる店が限られている。しかし、二人の反応を見る限り、唐揚げも二人の舌を十分に満足させる味だったらしい。
蓮子の感想の貧相さを嘆かわしげな表情で箸をすすめるメリー。蓮子も同じものを食べているが口をついて出る感想が余りにも違う、別のものでも食べているのかと思うくらいだ。
古代人がみんなそんなだったら、イクチは伝わっていなかったでしょうねえ
逆じゃない?やべーやべー魚いる、位で伝わったから存在してるのよ。正確に伝達されていたら、〝そんな魚いない〟で途絶えていたよ
何だか悔しいけれどそうかも……。でも〝観測〟は成功だわ。幻想の切片は回収された、結界の名の下に、観測を通じてね。
せめて病質に気付いてくれればいいのに。あんな方法で入ったら、顔を出した途端に消されかねないよ
そうよねえ……いつまで私達はエージェントしてればいいのかしら
あれでも私達の神様だからね、認めたくないけど
「やめ、せっかくの飯がまずくなるよ」蓮子が首を振って、次の唐揚げを取って口に放り込んだ。メリーは一緒に並んでいるお刺身の盛り合わせをつついている。 海岸沿いの食堂からは海が見える、今日は凪いでいるわけではない、かと言って荒れているわけでもない、程よい白波が立って海が海らしい表情を見せていた。イクチ=あんこうってことでどう?美味しいし平和だし、みんな幸せ
そうね、結局そんな怪魚はいないのだから、いっそそういうことにしてしまうのもいいかも知れないわ、イクチ鍋、食べてみたいわね!
イクチは表面がぬるぬるしているって言うし。ぬるぬるした食べ物に不味いものはないよー
ははは、と笑いながら海鮮料理に舌鼓を打つ二人。
補陀落渡海にせよ、件のイクチにせよ、太平洋沿岸地域には似たような、あるいは全く同じ伝承が残っている。だが、福島・茨城・千葉太平洋沿岸が他の地域と全く事情を異とするのは、この地域の海は流された向こうに何があるのか全く知れていないということだ。東南アジア・オセアニア方面を北上する黒潮は九州四国近畿そしてこの地に流れ着くだろう;カムチャッカ半島から南下する親潮は全く未開の地からこの地へ流れ着く。そしてこの地域から海に向かって流されると、黒潮と親潮が激突し遙かな太平洋へと向かう流れに乗ることになり、もう日本列島へ戻ってくるのは絶望的だ。この地域の海は、正に異界へ続く道だ。
二人が舌鼓を打つ食堂の窓の向こう、絶え間なく白波が立つ。寄せては消えて、消えては立つ、白いライン。水平線の向こうに、陸地も山も島も見えない。この海は太平洋、日本からその向こうにある世界を目で見て望める海ではない;世界の果てや異界に続いていると想像して、昔の人々はそれを否定する要素は持ち合わせていなかっただろう。
まさにこの海はこの二人が、それに無想の紡ぎ主が求めた、結界だった。現日本とこの海を隔てて繋がるのは、一体どの異界だったろうか、それは時代ごとに違うのだろう。結界の接続先もまた、人間達の描く大きな幻想によって、変わるのだろう。それが、現代に残る〝結界〟に違いない。それはカビリ信仰の残る古代ギリシャであったり、各地に公衆浴場が築かれたローマ帝国であったり、世界を股に掛ける黒船の母港であったり、様々だった。 ……虚舟に乗ってやってきた金髪の美女は、どこから来たのだろう。イギリス出身と自称するこの金髪美少女マエリベリー・ハーンは?一件落着?
あれが起きる前に回収できたのだから、そういうことでしょうね
上出来上出来
あんこうを挟む箸を、指揮者気取りに振るようにしながら、満足げな表情で宇佐見蓮子は頷いている。
お風呂でも入って帰りましょ?それともローマ風呂のロケ地でも見ていく?そういえばこの辺には歌垣の文化があったそうよ。高橋虫麻呂の歌にもある。虫といえば、そのロケ地には蛍もいるってさ。今は時期じゃないけれど、私と蓮子が強く念じれば、見られるかも
祈って出てくる蛍ってそれもう妖怪じゃないの……。そういえば、歌垣も東南アジア・中国南部に似たような文化が報告されていて、でも独特で特徴的なものだわね、きっとこれも遠路遥々流れ流れて渡ってきたのかも知れないね
ためしてく?
え、何を?
意図の読めないメリーの言葉、蓮子がクエスチョンマークを浮かべているその向こうの窓越しに望む、白波を立て続ける海。異界と繋がっている?ゴジラがいる?結界だ、その海は。よく遠くを望んだその向こうには明滅するように立つ白い波線。そして、現れては消える白波に対して不自然に姿を残しつづけ横移動する長い、恐しく長い何か。
遠慮の塊、もらいっ
えっ!それは遠慮してたんじゃないの、敢えて残しておいたの!
弱肉強食すなぁ~。うまっ!
あゝ、いともたやすく行われるえげつない行為!
あんこうが美味しすぎたのが、悪いのだ。